前回の続きです。
Eテレの幼児向け番組「いないいないばあ」がリニューアルされた。
女の子が代わり、「はるちゃん」という子になった。
オープニングの音楽も変わっていた。
さわやかで長めのイントロから「あ、そ、ぼ♫ あ、そ、ぼ♫」とリズムよく番組に誘ってくれる。
最初こそ「なんじゃこりゃ?」という顔をしていた1歳の息子も、いまやすっかり新体制の「いないいないばあ」に夢中になっている。
聞き馴染みのなかったオープニングテーマも、気分が新しくなるので心地よい。
そういえば、昔のオープニングテーマは、夜中にぐずってなかなか寝れない息子にエンドレスで見せていて、一時は「聴きたくもない!」と思うところまで追い詰められた記憶があったのだった。
前任の「ゆきちゃん」に比べ、上手すぎると感じていた「はるちゃん」も、息子が番組に夢中になっいるとわかるととたんに微笑ましく見えてきた。
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よく見れば、歌もダンスも、「わんわん」と「うーたん」との掛け合いもまだぎこちなく感じ、応援したくなってくる。
きっと、この番組に出演が決定してから、歌とダンスの練習に次ぐ練習の末、番組の収録から、音源の収録と寝る間もなく撮影に次ぐ撮影という苛烈なスケジュールを強いられているに違いない。
幼い大切な時間を、我が息子をおとなしくさせるために犠牲にしてくれていると思うと目頭が熱くなってくる。
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ところで、変わりすぎではないか?
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サバ缶の値上げ?
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それも深刻ですが、違います。
機関車トーマスです。
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昔はフジテレビでやっていた気がするが、いまやEテレの看板番組の一つ、だと勝手に思っている。
白い煙を出す模型の実写版は昔のことで、数年前からフルCGとなっている。
森本レオのナレーションも、ジョン・カビラになっていた。
オープニングテーマも、模型版の方が自分としてはおなじみのトーマスの曲という感じがしていたが、CG版でも似たようなほのぼのとした曲ですぐに馴染むことができた。
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幼児から大人までファンが多い番組で、多分に漏れずこれに4歳の息子が夢中である。
僕も見始めの頃は、「模型だからよかったのに!」と憤慨していたが、気が付いたら細部まで作り込まれたCGの表現力の豊かさに納得させられていた。
ストーリーの方も若干マイルドになっていた。
模型時代は、機関車が最高責任者であるトップハムハット卿に「働かされている感」があったが、CG版では、機関車たちは自ら「役に立つ機関車に、俺はなる!」との命題を掲げ、それに向かってまっしぐらであるがために起きる騒動が主軸となっている。
タイトルロールでもあるトーマスは、たまたま空いていた車体番号の「1」をトップという意味のナンバーワンと思い込んでいて、自分は最高権力者であるトップハム・ハット卿の1番のお気に入りだと方々で自称している。
トーマスは自らの思い込みの激しさから巻き起こした騒動を、自ら解決、回収することにより、自らの功績とする。最高権力者であるトップハム・ハット卿も、ミスには厳しいが、そのリカバリーに騙されてトーマスの評価を上げることとなっている。
トップハム・ハット卿は、ハゲデブチビのマザコンで、鉄道の定期運行至上主義者で、目の前の活躍しかみておらず贔屓ばかりするという、条件だけ見ればブラック企業のブラック上司のような存在だが、その鉄道愛は比類なく、ソドー島という小さな島にも関わらず、いたるところに線路が走り、それも複線複々線は当たり前なほど異常に鉄道を充実させている。島内各企業も鉄道輸送に頼っているので、事実上ソドー島経済の全ての重要な部分にトップハム・ハット卿が食い込んでいるに違いないとも言えそうだ。
つまりは、機関車たち=子供で、それを叱るが、最終的には許しを与えるトップハム・ハット卿=親。という構図なのだろう。だから子供たちはトーマスたち機関車に感情移入して夢中になる仕掛けだ。
しかし、親である最高権力者のトップハム・ハット卿も劇中では母親に逆らえずソドー鉄道の運営をめちゃめちゃにされる話が何回かある。親も実は子供なのだから、恐れることはないのだということを暗示しているのだと思えなくもない。
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CG版もシーズンを経るごとに少しずつ演出のテイストを変えていて(監督が変わったりする)、最近までは「歌」シーンが多くなっていたような気がする。
1、2年に1回のペースで映画版の興行を打ち、そこで新メンバーが登場(ゲスト声優で有名タレントを起用)、活躍させ、レギュラーシーズンに登場させるという黄金パターンで年間を回している。
映画版も監督の違いで大きくテイストが違う。たまに「子供向けじゃないだろう。。。」と思うようなテーマのときもあるがそこが魅力でもある。
(映画版についてはまた他の投稿で書きたいと思っています)
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───と、いうのが今年の3月までのこと。
例年の興行パターンで4月に映画版が公開された。
それに合わせて、テレビのレギュラーシリーズも変わってしまったのだ。
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オープニングテーマでまず驚かされた。
いままでのほのぼの系ではなく、いきなりギターのイントロが鳴り、そこへドラムが加わり、かなりテンポの速い曲で各メンバーを紹介する調のオープニングテーマとなっていた。
内容も、新シーズンからのテーマは「多様性を認めよう」みたいな感じらしく、異国の鉄道との交流や他文化への理解と尊重を押し出している。
具体的には、新メンバーとして異国の蒸気機関車が数多く登場し、そのメンバーも女性メンバーが(機関車にも性別がある)多くを占めている。
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新しくなった番組の構成は2部構成となっている。前半はトーマスが異国に行った時の話を回顧する話。後半は、ソドー島で異国の機関車を新メンバーとして迎えていく話というのがメインの構成のようだ。
気がつけば、機関車トーマスの特徴とも言えるようなナレーションが無くなっている。森本レオに次いでジョンカビラもクビになり、トーマス自らが回顧するようにストーリーテラーとなっている。
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細かい表現に目を向けると、機関車の感情表現が変わっている。従来は機関車たちの感情表現は、顔面のみで表現していた。CG版になってからは非常に豊かに動くのでそれで十分だと思っていたのだが、新シリーズから、車体をセリフに合わせて上下左右に動かすようになっている。
なんてこった。
チャギントンの影響か?
チャギントンはフジテレビで放送をしているイギリスの鉄道系CGアニメーション。
(てっきり韓国製作だと思っていたけど、トーマスと同じイギリスだった。。。)
こちらも子供に人気だが、世界と機関車の造形が未来的で、どこか人工知能的な何かを感じさせる。色彩感も独特で、基本色のほかにパステル調などの中間調の色彩が多く、自分としてはどこか氾濫した色彩感を感じてしまい、苦手としている。
チャギントンの世界で列車のキャラクターたちの可動域が広い。
上半身?車輪の最前列から上の部分を大きく持ち上げて上下左右に動かせる。
これの影響か?それともチャギントンの関係者がスタッフとして加わったか。。。
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自分が苦手とする番組の表現を取り入れたことも、ショックが大きい。
トーマスの世界では、それぞれが手柄を狙ってわがままを言い合うくせに駆動の自由さがあまりないところが、一応の蒸気機関車としてのリアルさの一部でもあったのではないか。
トーマスの世界では、燃料も大きな論争のテーマとなる。蒸気機関車は石炭と水がなくなると走れなくなる。(よくそれを無視されたシーンが出てくるが、ツッコミだしたらきりがないので指摘するのは野暮ってもの)
ディーゼル燃料で走るディーゼル機関車との抗争も映画として興行を打つほどの人気コンテンツだと思われる。
トーマスの世界は架空の時代だが、原作の絵本が描かれたのが1940年代末から1950年代なのでおそらくそのあたりの時代がモデルだろう。
現代に住む立場から見ると、列車の進化の変遷を知っているので、蒸気機関車たちのディーゼル機関車たちに対抗する鼻息の荒さも味わい深いものがある。
このようなややリアル路線が魅力であったのに、それをファンタジックな鉄道ユートピアな未来を描いたチャギントン的演出をするとは、なんとも嘆かわしく思ってしまった。
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───と、思っていたのがこの前までこと。
「こんなのトーマスじゃない!」と憤っていたのだが、4歳の息子は今回の映画がたいそう気に入ったらしい。
入場特典でもらったDVDに本編の映画が収録されていると思い込んでいて、あの映画をDVDで見せろ!と毎日のようにせがみ僕を困らせるほどだ。(その特典DVDに収録されているのはプラレールの紹介ビデオだった。ソドー鉄道とタカラトミーの癒着が甚だしく、トップハム・ハット卿の抜け目の無さに脱帽である。)
それだけでなく、小さい1歳の息子のほうも新トーマスを気に入った様子で。
おじさんの自分にとってはけたたましく聞こえる新オープニングのギターイントロも、ヤングな彼らにとってはアガル⤴︎音楽として聞こえているのだろうか。
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息子たちが気に入っているのであれば、親なんて単純なもので、新体制のトーマスも良いもののように見えてきてしまった。
1歳の息子がぐずった時でもこのギターイントロを聞かせるだけで、しばらくは画面に釘付けになってくれるので、大変助かっている。NHKありがとう。
昔ながらのナレーションスタイルよりもトーマスからの語りかけの方が子供にとっては理解しやすい。いい声の大人のおじさんの声よりも、自分と(精神的には)等身大のトーマスの方が良いに決まっているではないか。
おそらく、NHK内で会議に会議を重ね、莫大な予算を投じたAIによるシュミレーションの結果、「トーマスに語らせればいいんじゃね?」という結論になったから新体制のトーマスになったのであり、それを子供をおとなしくさせる道具としてしか見ていない40歳目前の葛飾区の工場作業員の浅い考えで否定するなど、愚行にもほどがあるというものだ。
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新しいことをやろうとする人を簡単に否定する人がいる。
たしかに、危うい思いつきの場合もあろだろうけど、熟考に熟考を重ねた結果、新しいことをやろうとしている人に対しても、その5万分の1も考えていないような人間が簡単に否定する。
否定するのは簡単で、「前の方が良かった」とか、「今のままでいいんじゃない?」とかいうのは本当に楽だ。リスクを考えているフリをして、保守の側についた方が自分が責任取らなくていいとでも思っているのだろうか。
新しいことをやろうとする人は、常に「より良くしたい」と考え続けている人の場合が多い気がする。
この世で最も価値のあるものの一つが「可能性」なのかもしれない。
子供は可能性の塊、可能性の獣なのだ。
40歳目前の猫背でガリガリの髪の毛ボサボサのたまにしか髭を剃らない葛飾区の工場作業員の低俗な保守思考など、可能性の獣にかかれば、簡単に打ち破られるのだった。